平野啓一郎『決壊』(2008)。
『少年の心の闇』や『無差別殺人・テロ』が主題となっている重厚でシリアスな長編小説です。
平穏に暮らしつつ、日々の悩みや家族への違和感をブログに綴るサラリーマン、沢野良介。学校にも家庭にも居場所を見出せず、胸中でくすぶる憎悪をブログで吐き出す中学生、北崎友哉。『悪魔』が仕掛ける同時多発テロ×無差別殺人計画が、無関係だった2人の人生に『決壊』をもたらす。
おそらく1990年後半を通過した世代は、作中の出来事と重なる事件についていくつかピンとくるはずです。久しぶりに読み返すとより『ある特定の時代の空気感』を感じます。
そういった出来事を知らない人も少なくないと思うので、レビューではまずそんな『時代背景』について触れてます。
また、作品を読む上で、平野啓一郎が提唱する『分人主義』という考えも重要なテーマ的背景になっているので、その点についても後述。
平野作品を読む上でさわりだけでも知っておいた方がいいと思います。
ストーリーとしては、だいぶ重めです。
終始、続きが気になりのめり込めますが、単純に『面白い』とは形容しづらく、すごい作品だと思いますが、気軽には人に勧めにくいです。
今回気軽に再読してみたら思った以上に精神的にくるものがありました…。Audibleの真に迫るナレーションの力によるところも大きいです。
上巻の大部分は『助走期間』が続く印象があるかもしれませんが、上巻の終盤で一気に物語が動いてまたグッと引き込まれます。
しかし、明るい未来が見えない予感に、本作が娯楽作品という以上に文学作品であると思わされます。
『決壊』作品内容
簡単なあらすじ
サラリーマンの沢野良介は妻子との暮らしを大切に思いつつ、日々の悩みや兄崇へのやるせない想いをブログに綴っていた。
優秀な国家公務員であり頼れる崇だが、本心が見えないこと、また、妻・佳枝との関係性に猜疑心が拭えなかった。
一方、中学生の北崎友哉は好意を抱いていた女子生徒と同級生の性交画像の存在を知ると、腹いせに盗み取りネットで拡散。
鬱屈とした想いを自身のブログ『孤独な殺人者の夢想』に書き散らしていた。
そんな仄暗い生活を送っていたある時、友哉は『悪魔』に見出され、実際に会うことになるー。
『孤独な殺人者の夢想』の元ネタはおそらくルソーが晩年に執筆した自伝的エッセイ『孤独な散歩者の夢想』。
『とうとうこの地上でひとりきりになってしまった。』という有名な書き出しで始まるこの本と自分を重ねてると考えると、それだけで友哉の末期的なヤバさが伝わります。
ただ、昔読んだ印象ではルソーの方は不遇な境涯ではありつつ、吐露される心境はそこまでドロドロしてなかった気がします。
『決壊』ショートレビュー・注目ポイント
- 悪魔が仕掛ける『同時多発×無差別殺人テロ』が決壊させたものは
- 【無差別殺人・少年の心の闇・同時多発テロ】。2000年前後の時代背景と空気感
- 作品の根底に流れるテーマ的背景。平野啓一郎の提唱する『分人主義』について
悪魔が仕掛ける『同時多発×無差別殺人テロ』が決壊させたものは
上巻では沢野崇・良介を中心とした沢野家のストーリーが主軸になってます。
崇たちの両親の不和や父親の『異変』。崇と良介、良介と妻の思いのズレ。
普通の家族のよくある話ではあるものの、どれも一歩間違えば全てが壊れてしまうような不穏さが漂ってます。
もう一人軸となる人物、中学生の北崎友哉は好意を寄せる女子生徒の裸画像をネットにばら撒くという倒錯した暴挙に出ます。その時点でもう完全に一線を超えてます。
上巻はそんな感じで至るところで導火線に火がつき、表面上は普通の生活が続きますが、決壊寸前のダムのような様相を呈します。
そんな中、『悪魔』が登場し、友哉と出会います。
悪魔は友哉の、ひいては全ての人々の心の闇を触発し、名前の通り悪魔的かつ壮大な同時多発×無差別大量殺人計画を仕掛けます。
果たして、その目論みは着々と現実化しー。
タイトル『決壊』の意味は色々解釈できますが、一つは人の心の闇の奔流をおさえる堤防のようなものの『決壊』、をイメージさせます。
【無差別殺人・少年の心の闇・同時多発テロ】。2000年前後の時代背景と空気感
本書の出版は2008年6月。連載期間はwikipediaによると2006年から2008年。
執筆前の10年ぐらいを考えると、上の【3つの要素】を連想する事件がすぐに浮かびます。
- オウムによる地下鉄サリン事件(1995)
- 少年Aによる神戸殺人事件(1997)
- アルカイダによるアメリカ同時多発テロ(2001)
もう一つ浮かんだ秋葉原の無差別殺人は出版とちょうど同じ時期でした(2008年6月)。執筆段階での影響はないとはいえ、ある意味最も作品と時代がリンクしている象徴のように感じます。ひろゆきが『無敵の人』という言葉を初めて使ったのも確認したらこの年でした。
もちろん、他にも同様の事件は色々ありましたし、近年も色々あります。ただ、この3つの事件のインパクト、禍々しさは突出してます。
騒然とした地下鉄入口付近の光景。スキャンダラスな赤い『酒鬼薔薇聖斗』の文字。飛行機が突っ込み崩落するツインタワー。
今でも当時見た映像の記憶が鮮明に残ってます。
『決壊』にはそんな時代の空気感が色濃く滲んでいて、改めてあの頃/あの出来事は異様だったと感じます。
ちなみに、『悪魔』が口にする『地獄から』というセリフはおそらく1888年イギリスで起こった劇場型犯罪の祖・切り裂きジャックの手紙の言葉で、『フロム・ヘル』はそのままジョニー・デップ主演の映画のタイトルにもなってます。
『劇場型・犯行声明文・被害者の体の一部を切り取る』など一連の犯行からは2000年前後の重大事件と共に切り裂きジャックの影響・匂いも感じます。
作品の根底に流れるテーマ的背景。平野啓一郎の提唱する『分人主義』について
『分人』とは『個人』の対となる概念です。
『個人』は英語で『individual』。『dividual(分離した)』に否定の接頭辞『in』がくっついて、『個人=分けられない存在』と捉えられます。
これは当たり前の事実のようであり、実は一神教に由来する近代西洋的な概念でもあります。つまり、日本に浸透したのは近代に入ってからで、歴史は割と浅いです。
自分を『分けられない存在』とすると、そこから唯一無二の『本当の自分』を求める/求めすぎる傾向にも繋がります。そう考えると『個人』の『近代っぽさ』がなんとなく伝わります。
それに対して、『分人』は『dividual=分けられる存在』であり、人はあらゆるシーン・人間関係の中で様々な『自分』に変容する存在である=『本当の自分などない/あらゆる分人の総体が自分』と考えます。
筆者はその方が実状に合っており、また色々と有用であると説きます。
例えば、『個人』思考だと、『いじめに合ってる自分』が『唯一の自分』で思考も精神も行き詰まってしまう。しかし、『分人』思考だと『いじめに合ってる自分』は一つの分人に過ぎず、解決策として他の『分人』の割合を大きくすればいいといった活路を見出せる、など。
そういった『分人』思考は様々な平野作品に盛り込まれていて、Audibleでは分人主義シリーズでまとめられてます。
『決壊』はシリーズ第一弾で、本作では『ネットの人格/現実の人格』などのトピックにおいて分人的思考が表れてます。
特に『分人』に注目しなくても小説を楽しめますが、記事冒頭で書いた通り一応知っておいた方がいいと思います。
というのも、知らないと例えば上巻後半の崇と同僚の政治談義など、作品内で『浮く』からです。
二人の政治の話もおそらく『国』という一個の主体を題材に分人的思考を援用してるくだりだと思われます(それだけが目的じゃないかもしれませんが)。
でも、そんなテーマ的背景を知らないと、何でストーリーと関係ない政治の話を長々としてるのか?となります(知っててもストーリー的には浮いてる印象は否めませんが)。
『分人主義』については、新書『私とは何か――「個人」から「分人」へ』の方が平易な文章で体系的にまとまっています。気になる方は読んだ方がより平野作品を楽しめるし理解しやすくなると思います。
『決壊』作品情報
主な登場人物・人物相関図
![](https://guideandreviews-library.com/wp-content/uploads/2023/11/kekkai-hiranokeiitirou01-1024x730.jpg)
詳しい登場人物まとめ
オーディオブックだと頭に入ってこない事があるため、なるべく全人物メモしてます。同様の方がいたら参考にしてください。
※オーディオブックでの視聴のため、未確認の表記はカタカタ。漢字は主に公式かwikipedia参照。
沢野崇・良介関連は両親の親族が多いですが、ちゃんと登場するのは本田象一くらいです。
崇の恋人も5人、元を含めると6人もいますが、『カオリ、ユキ』は名前だけだったと思います。
【上巻】 | 沢野崇・良介 関連 |
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沢野崇 | 兄。国会図書館勤務。東大出身。 |
沢野良介 | 弟。化学薬品会社営業。妻 佳枝。息子 良太。 |
沢野治夫/和子 | 崇・良介の両親。 治夫の姉(妹?)ミネコ。 |
沢野エイジ/房江 | 治夫の両親。 |
本田邦夫/照子 | 和子の両親。 |
本田象一 | 和子の兄(四兄弟…フミコ/象一/和子/アツシ) 医者。嫁 ノリコ。娘 リサ。 |
ノダ | 治夫の主治医。 |
羽田千津 | 崇の不倫相手。他の恋人↓ 小曽根美菜/ミムラサキ/カオリ/ユキ |
室田秀則 | 崇の友人。 |
岸辺 | 崇の国会図書館の部下。 |
666 | ?。良介のブログの訪問者のペンネーム。 |
壬生実見 | 芸術家。 |
【上巻】 | 北崎友哉 関連 |
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北崎友哉 | 中学生。ブログ『孤独な殺人者の夢想』。 |
北崎志保子 | 友哉の母親。 |
北崎英二 | 友哉の父親。 |
久賀安由美 | 友哉の同級生。 |
広畑純也 | 友哉の同級生。 |
尾田 | 友哉の担任。男性。 |
木下 | 友哉の副担任。女性。 |
オミ | 刑事。 |
悪魔 | 無差別殺人計画の首謀者。 |
↓ここから全員 下巻の登場人物です。
【下巻】 | 事件・警察 関連 その他 |
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ヤマネ | 警視庁。刑事。 |
カタギリ | 京都府警。警部。 |
スダ | 京都府警。刑事。 |
シモムラ ヨシガズ | 元プロ野球選手。コメンテーター。 |
カツゾウ | コラムニスト。コメンテーター。 45歳。金髪。 |
キタモリ マミ | 教育評論家。コメンテーター。 |
カワモリ | 弁護士。 |
オカエ | 死体発見の通報者 |
ヤマガミ ヨシノ | 記者。崇の元恋人。 |
シノハラユウジ | 義父 ユウジ。妹 『レナ』。 |
イトウ ミチオ | フリーライター。 |
モリオカ | スーパー店長。 |
ニシオ リョウジ | 番組プロデューサー。 |
『決壊』ナレーションについて
ナレーターは『井上 悟』氏一人。
『よかった』という以上に『すごかった』です。
ナレーションに紛れ込む『息づかい』はしばしばマイナス評価の対象になります。
でも、本作ではブレスを表現方法として、ここぞというポイントで効果的に取り入れられています。
悲痛なセリフ、シーンは活字の何倍も悲痛さが増して、聴いてるのが辛くなるくらいでした。それは良いことなのかどうか一概に言えない気もしますが、表現力は純粋に圧巻です。
井上氏は平野作品の『本心』をはじめ他にも他にも色々担当されていて、『このナレーションでもっと他の作品も聴いてみたい』と思わされました。
あとがき
平野啓一郎はデビュー作の『日蝕』で芥川賞を受賞。その後『一月物語/葬送』を発表しますが、これら初期3部作は文章も物語も難しいため、購入はしたもののずっと積読状態が続いてます。
初期三部作は現状audible化されていなく、理由はもしかしたら『難しいから』かもしれません。活字でもとっつきにくいので、audibleはちょっと厳しい気がします。
『決壊』は現代的な内容、文章での最初の長編作品と言えますが、この作品も難解な部分があり、明らかに他にもっとお勧めしやすい作品はあります。
それでも一冊目に読んだのは『決壊』でよかったと思っていますし、人に勧めるとしたら(ためらいつつ)『決壊』を選びます。
audibleはレビューを書く前に2回聴くことが多く、『決壊』も上巻は2回聴いてます。でも、下巻はズゥンと胸にわだかまる読後感がなかなか消化されず、結局2周することなく記事を書きました。
視聴する際は、なるべく気分的に曇り模様じゃない時に聴いた方がいいかもしれません。
著者 | 平野 啓一郎 |
ナレーター | 井上 悟 |
再生時間 | 13 時間 40 分 |
発行年 | 2008 |
配信日 | 2022/08/05 |
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